広済寺「天狗の火伏せ」を科学する【川越の伝説・妖怪検証#6】

川越に伝わる妖怪や不思議な伝説を検証するシリーズです。今回は、広済寺の天狗の伝説についてよくよく調べてみたことを報告します。

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広済寺の天狗伝説とは

川越の蔵造りの通りである一番街を過ぎて、北に少し向かったところに広済寺というお寺があります。このお寺には天狗の伝説があります。「川越の伝説」(川越市教育委員会発行 初版昭和56年12月25日)には、次のように記されています。

広済寺の天狗さま

むかしのおはなしです。川越の町なみがまだ蔵づくりではなかった頃のことです。ちょっと火が出ますと軒なみに、もえひろがり大火事となり人々はこまっておりました。町のはずれの喜多町というところに広済寺といいます古いお寺がありますが、この境内は古木が生い茂り、うっそうとしていました。その中でもひときわ高い杉の老木がありました。そこには天狗がすんでおりまして、いつも町を見守っていたそうです。ある日のこと火の手がパッとあがり、あわや大火になろうとした時です。老杉に天狗が大きな羽うちわをもってあらわれまして、バッサバッサとあおぎ、風向きを考えまして火の手を町の外へ出してしまいました。そして、町内を火災からまもったということです。それからも町で火事がおこると必ず広済寺の天狗さまがあらわれて防いでくれるのだそうです。

また、「埼玉県の民話と伝説 川越編」(有峰書店)には短めですが、次のように記されています。

天狗のうちわ

喜多町の広済寺は、むかしから天狗がでるといわれ、火災が発生して喜多町が類焼しそうになると、どこからともなく境内にある大きな老杉の梢に現れて、持っている大きなうちわであおって風向きを変えてしまい、火勢が喜多町へ及ぶのを防いでくれると伝えられている。

だから、喜多町は他の町内より火事が少ないという。

広済寺の場所

広済寺は室町時代1548年(河越夜戦の2年後)に創建されたお寺です。(川越マスメディア)

広済寺は、街中からやや離れていますが、一番街を北側に向かって、左手にあります。地図だと下記の位置で、氷川神社の前の道と一番街がクロスしたところ、といえばわかりやすいでしょうか。

一番街を進むとこのような案内板があります。

門の左右には羽団扇の絵が彫られています。

境内の様子です。天狗が出そうなうっそうとした感じはありません。

裏手も同様ですね。

検証1:そもそも天狗とは?

今更ですが、「天狗」とはなんでしょうか?ネットの辞書サイトから2つ紹介します。(天狗(テング)とは? 意味や使い方 – コトバンク

コトバンク デジタル大辞泉より

深山に住むという妖怪。山伏姿で、顔が赤くて鼻が高く、背に翼があり、手には羽団扇
はうちわ
・太刀・金剛杖を持つ。神通力があって、自由に飛行するという。鼻の高い大天狗烏天狗などがある。各地に天狗にまつわる怪異な話が伝承されており、山中で起こる種々の不思議な現象は、しばしば天狗のしわざであるとされる。

コトバンク 精選版 日本国語大辞典より

 天上や深山に住むという妖怪。山の神の霊威を母胎とし、怨霊、御霊など浮遊霊の信仰を合わせ、また、修験者に仮託して幻影を具体化したもの。山伏姿で、顔が赤く、鼻が高く、翼があって、手足の爪が長く、金剛杖・太刀・うちわをもち、神通力があり、飛行自在という。中国で、流星・山獣の一種と解し、仏教で夜叉・悪魔と解されたものが、日本にはいって修験道と結びついて想像されたもの。時代によりその概念に変遷があるが、中世以降、通常、次の三種を考え、第一種は鞍馬山僧正坊、愛宕山太郎坊、秋葉山三尺坊のように勧善懲悪・仏法守護を行なう山神、第二種は増上慢の結果、堕落した僧侶などの変じたもの、第三種は現世に怨恨や憤怒を感じて堕落して変じたものという。大天狗、小天狗、烏天狗などの別がある。天狗を悪魔、いたずらものと解するときはこの第二・第三種のものである。

他でも調べてみましたが、天狗の特徴をまとめると次のようになります。

  • 山(それも人が出入りしていないような山奥)に住んでいる。
  • 顔は2系統あり。①赤色で鼻が高い(大天狗)、②烏(カラス)のような口ばしを持つ鳥顔(烏天狗)。烏天狗は大天狗の従者、配下。
  • 背中に羽があり、空を飛べる。
  • 羽団扇、太刀、金剛杖(修験者や巡礼者、登山者が使用する、主に白木で作られた杖)

この辺りを基本データとして、広済寺の天狗について、検証していきたいと思います。

検証2:「広済寺」は山にある寺?

天狗は山奥に住んでいる、とされています。では、広済寺は山にある寺なのでしょうか?いえいえ、上の地図をみればわかるように、町の「ど真ん中」ではありませんが、少しだけ離れたところにあり、平地です。確かに広済寺を北側に過ぎると新河岸川があるため下り坂となってはいますが、とても「山」といえるような所ではありません。

では、かつては「山」だったのでしょうか?古地図で確認してみましょう。また「大江戸今昔めぐり」を使わせてもらいます。まず、周辺状況です。

丁度、地図の真ん中が広済寺になります。若干、北側の東明寺に向かう道の変化はありますが、現代とほぼ変わってません。ということは、伝説にある「境内は古木が生い茂り、うっそうとしていた」ことはあっても、やはりこの辺り「山」ではなかった、ということになります。

では、広済寺の天狗は、町中に住んでいた、ということでしょうか?そんな天狗がいるものでしょうか?

検証3:町中に棲む天狗はいるのか?

天狗というと山伏風の衣装を着ているイメージがあり、やはり山奥に棲んでいるということが頭に浮かびます。ところが、広済寺は、かなり町中に近い位置に建っており、目撃されやすさからも天狗が堂々と棲みつくのには適しているとは思えません。が、念のため町中にも棲んでいた天狗がいるものなのか、文献や資料を調べてみたところ、いくつか記録が見つかりました。

これは「埼玉の妖怪」大明敦(さきたま出版会)という書籍ですが、この中に埼玉県内で町中に棲んでいた、あるいは現れた天狗のことが詳しく解説されています。

例を挙げましょう。

・さいたま市岩槻区にある武蔵第六天神社の天狗(https://dairokuten.or.jp/)

かつて境内には天狗が休んでいたという大きな杉の木がありましたが、・・

武蔵第六天神社の社殿脇にある天狗の絵馬

武蔵第六天神社は元荒川の川岸にあり、この辺りは田んぼが広がる平地です。今は杉の木は伐採されてしまってなくなっていましたが、山奥でないところに天狗が棲んでいた例になります。なお、この天狗が具体的に何かをしたのかまではわかりませんでした。

・坂戸市上吉田の「百日咳を鎮めた天狗」

坂戸市の上吉田の一本杉には、昔、秩父の山奥から風に乗ってきた大きな天狗が棲みついていました。(中略)村々の人々が天狗の大好きな酒を竹の筒に入れ、御馳走をたくさん持って頼みに行くと、天狗は「よし、わかった」と言って、大きな団扇で空をあおぎました。すると、空から風邪の神が大きな音を立てて落ちてきました。天狗が大きな足で風の神を踏みつけ、・・・

坂戸市上吉田は高麗川と越辺川が合流する手前の南側の地区です。ここも山地ではありません。物語は人と会話をしたり、酒を飲んだりとかなり具体的で、普通に暮らしに溶け込んでいたかのような生活ぶりです。なお、現地で探してみましたが、一本杉らしき木は見つかりませんでした。代わりに携帯電話基地局が道路脇に建っていましたので、「一本杉があったらこんな感じかな」ということでイメージを載せておきます。

上吉田の携帯電話基地局

ということで、通常は山の奥に棲んでいる天狗が、なんら事情があって(?)町中に棲んでいても不思議ではなかった、といえましょう。

検証4:広済寺の天狗の姿は?

では、広済寺の天狗の姿はどうだったしょうか?大天狗(鼻高天狗)の顔立ち?烏天狗の顔立ち?

この伝説に関する文献を数点調べてみましたが、どうも広済寺の天狗については「高い杉に住んでいた」という記載があるのみで、その顔立ちや風貌に関する記載が見当たりません。高い木に住んでいる、ということから背中に羽があり、空を飛べたのではないか、と推測はできます。

では、火の風向きを変えたという「羽団扇」について検証してみます。羽団扇の材質としては、①鳥の羽根説、と②ヤツデの葉説があります。

①鳥の羽根の団扇の場合、羽根の種類としては猛禽類(トビ、タカ、鷲など)の風切羽(かざきりば)が使われ、何枚も重ね合わせて作られたとされています。サイズは、人間が手に持って仰ぐのにちょうど良い、やや大きめ(縦全長が約40cm〜45cm、幅約45cm程度)とされています。

②ヤツデの葉は鳥の羽根の団扇よりやや小さいようです。そして別名「天狗の葉団扇(てんぐのはうちわ)」とも呼ばれています。ただ、順番としては逆で、天狗の団扇に似ているのでこの名が付いた、というようなので、実際に天狗が持っていた、ということではないかと解釈しました。

広済寺の門の彫刻を見るに、羽団扇は鳥の羽根のようです。羽根の種類までは私の目では特定できませんでしたが、鷹かトビのような気がしました。江戸時代の川越の北側は江戸幕府の狩場であったことから鷹かもしれませんね。さて、天狗との関係ですが、羽団扇は神通力の象徴であり、通常はリーダーの大天狗が持つもの、とされているようです。これに対し、烏天狗は太刀や金剛杖を持ち、武術の達人としての役割を果たしているとのこと。ということで、状況証拠から広済寺の天狗は「大天狗」だったといえましょう。ただあくまで、「状況証拠」です。

検証5:川越における風向きを気象学で考える

ところで、冒頭の伝説に少し気になる記述があります。伝説には「風向きを考えまして、火の手を町の外へ出してしまいました」、「持っている大きなうちわであおって風向きを変えてしまい、火勢が喜多町へ及ぶのを防いでくれる」とあります。

広済寺の位置を考えますと、迫る火は「南から北」へと向かってきたものと思われます。火が広済寺にかからないようにする、あるいは町の外に出すようにする風向きとは、「北から南」または「東から西」に向かう風と考えられます。

これを内陸で、西と北側に山がある川越の気象に照らして考えてみます。

1. 冬から春の日中の「南風」

火災が起きやすい冬から春先にかけての川越周辺では、気象学的に特有の風のパターンがあります。

晴天の日に日本海側を低気圧が通過すると、東京湾から内陸部へ向かって乾燥した強い「南風」が吹き込みます。もし城下町の中心部で火の手が上がれば、この激しい南風に煽られ、火は一気に北に向かうことになります。

2. 夜間の「風向反転」

しかし、夕刻から夜間にかけてこの南風に変化が起こることがあります。

日没後、内陸部(埼玉北部や群馬方面)が放射冷却によって急速に冷え込むと、それまでの南風がぴたっと止みます。そして代わりに、冷え込んだ内陸部から南へ向かって吹き下ろす冷たく乾いた「北風(内陸冷気流)」が一気に吹き差し込んできます。

南風に乗せられて燃え広がろうとしていた火が、突如風向きが真逆に反転。この気象現象こそが、天狗が起こしたとされる「風の旋回」の正体と考えられます。

実際にそんなことが起こるのか、ということで気象庁の提供しているデータを調べてみました。

サイト名: 気象庁「過去の気象データ検索」(https://www.data.jma.go.jp/stats/etrn/)

近年は気象状況が極めて異常なので、20年以上前のデータで冬から春にかけてのデータを調べてみたところ次のような記録が見つかりました。なお、川越は気象観測点になっていないため、お隣の「さいたま市」のデータをとりました。

これなど面白いですね。昼すぎから16時までは南向きの風だったのが、17時をすぎると北向きに変わっています。風速の強さも北向きの方が大きくなっています。もう1つ。

前のより10年前の1990年のデータですが、ここでも20時まで南向きの風だったのが、22時以降は真逆の北向きに変わっています。風速もやはり北向きの風の方が強くなっています。

このように、赤囲みの時間帯に火災が発生したとすれば、火は南から北、すなわち街中から喜多町へと向かっていたのが、青囲みの時間帯で風向きが急反転、しかも火を押し戻すかのような強い風が吹いた、ともいえるのではないでしょうか。

検証6:風が流れる地形

もうひとつ、地形上の理由もあったかもしれないな、と考えています。

再掲になりますが、江戸時代の広済寺付近の地図をよくご覧ください。

江戸時代の広済寺付近(大江戸今昔めぐり より)

札の辻からみますと、右手(東側)や下手(南側)は武家屋敷や商家が密集しているのに対し、左手(西側)は新河岸川で土地が低くなる上、川の手前はお寺(大蓮寺、養寿院、見立寺)が多く、広い敷地になっています。

このため、北向きに風が変わった場合、正面衝突で行き場を失った炎や火の粉は、東側の建物の壁を避け、空気がスムーズに流れる西側の「新河岸川の川筋(町の外)」へと引きずり出されるように流れていったのではないでしょうか。

風向きが変わった推測図

こうして建物が密集する街並みを逸れ、水辺へと押し出された火の手は、燃え広がる燃料を失って急速に鎮火していったと推測します。

結論:伝説の誕生のステップ

このように考えていくと、広済寺の天狗伝説は次のような心理のステップで形作られていったのではないでしょうか。

  1. 喜多町へ迫る火が、突如として風向きを変え、延焼を免れたことが数回起きた。
  2. 風向きが急に変わったのは、天狗が羽団扇を使って火を逃がしてくれたからだ。
  3. そういえば広済寺には高い杉の木があり、いかにも天狗が棲んでいそうだ。

こうした「実際の出来事」と「人々の感謝や見立て」が重なり合って、ひとつの伝承として語り継がれていったと考えられます。

まとめと課題

以上、 広済寺の天狗の伝説について検証してまいりました。結果をまとめますと次のようになります。

  • 天狗は通常は深い山中に棲んでいるとされているが、一方で埼玉には平地(町中)にいた天狗の話も複数残っている。広済寺は街中にある寺だが、こうした背景もあり、天狗がいても唐突感はない。また広済寺の宗派(曹洞宗)は、天狗との関わりが多い宗派でもある。天狗のつきものの、高い杉の木も当時はあった。
  • 広済寺の天狗は具体的な風貌は伝えられていないが、羽団扇を持っているということで大天狗と考えられる。天狗の羽団扇は門の絵から察するにヤツデの団扇ではなく、鳥の羽根の団扇。羽団扇は風を操れるので火の方向は変えられる。
  • 川越付近は、特に冬から春にかけては、時間帯によって風向きが真逆になることがある。晴天日の日中に日本海を低気圧が通過した場合に、東京湾から内陸へ吹き込む強い「南風」が発生するが、低気圧が移動すると、日没後に内陸冷気流(北〜北東の風)への交代が起こりやすい。
  • 街中で火事が起き、喜多町に迫ろうとしたた際に、急に風向きが変わり延焼を免れた、ということからこの風が広済寺の天狗が起こしたもの、というようになったのではないか。

課題としては次のようなことがあります。

  • 検証3では本当は川越市内の別の場所で町中に棲む天狗の情報を得たかったが、見つからなかった。なお、喜多院には「住職が天狗となり、妙義山の中ノ嶽へと飛び去った。」という話もありますが、今回の趣旨とは違うので追っていません。
  • 検証5の気象データが、隣のさいたま市のものなので、本当はずばりの川越市のデータが欲しい。
  • 検証6での風が東から西に流れるという件、江戸時代の平屋建ての建物でも起こりうるのか、という点が十分に検証できていません。

これらを含め、また時間のあるときに検証を進めたいと思います。

以上、お読みいただきありがとうございました。


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